能登半島地震から1カ月あまりがたちました。父を亡くした石川県輪島市の女性はいま、父が生前話していた言葉を胸に刻みながら前を向こうとしています。
土中美紀さん:
「1月4日、朝の7時。石川県輪島市山岸町私の自宅です。1階が潰れて見えません」
輪島市山岸町に住む土中美紀さん(47)。父・健一郎さん(74)と2人で暮らしていました。
地震で自宅は全壊。健一郎さんは亡くなりました。
土中美紀さん:
「年の暮れにおせちを3段作って『きょうは夕方、娘も帰ってくるし、みんなで食べようね』って言って、お父さんまたつまみ食いするかなと思ったから『おせち先に食べんといてや』って言ってほんで仕事行ったんやけど」
これが最後の会話になりました。
土中美紀さん:
「今思えば、本当にそんなこと言わんとけばよかったなって。ちょっとでもね、食べてくれとればよかったかなって思う」
当時、穴水町のホテルで勤務していた美紀さん。健一郎さんと連絡が取れないまま一人、羽咋市のホテルへ避難しました。
土中美紀さん:
「どっかの避難所におるやろって思ったから…思いたかったんかな…でもみんな大丈夫、大丈夫って絶対見つかるよって言って励まして貰いながら避難所に着いて…本当に輪島に帰りたかった」
遺体と対面したのは3日後のことです。
この日、美紀さんが向かったのは、のと鉄道の穴水駅。
土中美紀さん:
「“のと鉄道”って書いているあそこにも父がおったりで仕事しとった」
美紀さんの父・健一郎さんは鉄道の保線作業員。最後の職場はこの穴水駅でした。
石川テレビが2008年に放送した番組。そこに、健一郎さんの姿がありました。
美紀さんの父・健一郎さん(当時):
「花形は運転士やけど、縁の下の力持ちという影の存在・黒子的存在やね」
土中美紀さん:
「お父さん? あーお父さんや」
2007年に起きた能登半島地震。この時、健一郎さんは住民の足となる鉄道の早期復旧に尽力しました。
美紀さんの父・健一郎さん(当時):
「地域の皆さんのために復旧しないとと本当にあの時思いました」
土中美紀さん:
「私も負けとられん。本当に私、何にもできんけど復興したらやっぱり輪島帰ってきたいなって思うし、元気にしていきたい」
地震から1カ月が経ったこの日。美紀さんは40年あまり過ごした自宅にいました。
土中美紀さん:
「お父さんの座っていた座布団出てきた。これに座っとった」
思い出の品を探すためです。
土中美紀さん:
「これはやめておこう…もうだめだ…」
すべてを持って帰ることはできません。
美紀さんはいま、金沢市内の「みなし仮設」で暮らしています。部屋に溢れるのは、持ち帰った家族の思い出の品々。
気持ちを切り替えることはまだできません。それでも…
土中美紀さん:
「(父の遺影を見て)ずっと笑っとる怒ることもないし、なんか…しっかりせんかって言われそう…泣いとったら」
父との思い出を胸に刻み、美紀さんは前を向こうとしています。